| 横浜生まれの山口県育ち。先祖は長州人。おれも、れっきとした長州人ダー! 人間至る所青山アリ。は勤王僧の月性(山口県大島の人)の讃。
男児立志出郷関 男児 こころざしをたて 郷関をいづ
学若無成不復還 学 もしなるなくんば 又還らず
埋骨何期墳墓地 骨をうずむる なんぞ 期せん 墳墓の地
人間到処有青山 人間至る処 青山あり
そこで私も青山の志。はるばる東京へと出た。
海と伝馬船。これが俺のフルサトだ。
小学校1年生が終わった春、父は佐賀小学校に転任になった。
父の大好きな海のそばだ!
父は早速、伝馬船を買ってくれた。
船を造ってくれたのは飲んだくれの、それでも腕は確かな船大工だった。
高校1年の春まで船を漕いで育った。
草深い山村は明治維新のフルサト
その前、熊毛郡城南村という山村で3年ほどの時間を送っている。
維新史の中で周防の人たちがしめる割合は大きい。
第二奇兵隊(南奇兵隊)が駐屯していた、石城山(いわきさん)のふもと。
田に入れば、足にヒルが吸い付いているというありさまだった。
八島が見せる暗い過去
山口県熊毛郡上関町八島。室津半島からポンポン船で、
瀬戸内海の真ん中に乗り出していくと、八島が見えてくる。
西北に開いた島の船着き場は、人家から離れて暗く、
一度フルサト探訪で訪れたとき、あ〜自分の中にある暗い面は、
この船着き場の風景だと悟った。
現在山口県柳井市にあって、
郷里山口県の古い家並を素晴らしいタッチで描いていらっしゃる、
画家川口健治さんは私の6歳年上。八島の出身だ。
生まれたところがフルサトなのか
昭和19年、戦争もようやく負けが見え始めた4月、横浜根岸台で生まれた。
兄と姉二人。親父、お袋、おばあちゃん。小さな家に大家族だった。
昭和20年4月の東京大空襲(川崎、鶴見地区の工場の爆撃)を、
防空壕の中で眺めた記憶がある。
3才上の姉(毬子)と、いつも一緒に遊んでいたらしい。
裸になるのが好きで、裸で芋畑の中を走り回っていた、
というのが横浜のお袋の記憶に残っている印象。
戦争が終わると横浜にアメリカ陸軍の工兵隊が進駐してきて、
とてつもなくでっかい、緑色のブルドーザーで根岸台の競馬場を崩し始めた。
おばあちゃんの背に負われて、工事を見に行った。
カーキ色のフランネルのGIジャンパーの軍服を着た、
赤ら顔の兵隊がゆっくりとやってきて、
おばあちゃんと訳のわからん言葉でペラペラ喋っている。
おばあちゃんも訳のわからん言葉で、ペラペラ返事をしている。
中年の兵隊はボクの顔をのぞき込んだ。
彼が、軍服の胸のポケットを不器用に叩きながら
「キョウ、チョコレートナイ・・・キョウ、チョコレートナイ・・・」怖かった。今もその声が耳に響いている。恐ろしい思い出である。
昭和23年のことか。
横浜の親父のお兄さんが、山口県の八島という小さな島で小学校の校長をやっていた。
その人のところに養子に行くことになった。
岩国の田圃が空襲でやられて、爆弾の破裂で、
たこつぼみたいなタメ池がそこら中にできていた。
1年後に横浜の親父が毬子を連れて遊びに来たとき、
「オジチャン、マリコチャン」と、連発して
毬子はとてもがっかりしたらしい。
1年前までは「オネエチャン、オネエチャン」と、後を追っかけていたんだから・・・
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